空太のそら言

隠れオタクのぐうたら

プラハの春上下

プラハの春(上) (集英社文庫)

プラハの春(上) (集英社文庫)


プラハの春(下) (集英社文庫)

プラハの春(下) (集英社文庫)


しゃちょーからプレゼントしてもらった本。
泣いた。正直泣いた。
大きな流れに逆らえない人間の運命に泣いた。
あんまり言うとネタバレになるのかしら。ネタバレ上等!って方だけ読んでね。










それにしてもカテリーナの包容力はあれは何だろう?
上巻の半分ぐらいを読んだところですでに、その胸の広さに感動し、ミレナと呼ばれるようになったときには不遇の死を遂げると予感した。
強い、しかし儚い。
一見完璧に見えるが、本当は細い糸が通ってるだけではないか。何でか危うさがあるのです。
そして、亮介は、カテリーナのどこに惹かれたのか。



プラハの春自体は知らなかった。生まれてなかったし、現代史どころか歴史は最悪に相性が悪かったから(意味もなく記憶するのが超苦手)。
ベルリンの壁が崩壊するのは見た。朧気ながら小学生の時だ。壁を越えて喚起に涙する人たちを見て、よく分からなかった。
なぜ壁などがあったのか。


およそこの世は「欲」で構築されてきた。
植物も、動物も、無意識下の繁栄の欲。人間もそうだ。文化文明など最たるものだろう。
チェコスロバキアを激しく動揺させたプラハの春も、諸国の「欲」が気持ち悪いほど表れている。
自由を求める市民の欲。
それを阻止して、いつまでも手中に置いておきたい欲。
動と静。
解放と閉塞。
しかし、どちらも欲と欲。
同じ欲なのに、何故質が違うように思うのだろう。
作中に、『権力は悪である』とあった。確かに、権力を求めるとき、悪しき欲に包まれることが多いように思う。
しかしここで、私はまた迷い込む。
「悪しき」欲。善悪は何を持ってつけるのか。
人により善悪の基準は違うのに、善の欲だけを期待することは出来るのか。
何が悪くて、何が善いのか、その基準の違いが、争いになっているのではないか。
基準は価値観と言えるだろうが、言葉も宗教も違う人々の中で、それを共有することは可能なのか。



何にせよ、泣いた。
その価値観の違いから起こった悲劇に、泣いたのだ。