空太のそら言

隠れオタクのぐうたら

世の中には色んな人がいるもので

「今日は、世の中には色々な人がいるという話をしたいと思います」
「色々な人と言っても、それを考える指標によって分類が変わってきますね。今日の指標は何ですか?」
「その通りです。今回は、求めるか否か、について考えましょう」
「なるほど。しかし少し漠然としすぎていますね。具体例は何かありますか?」
「はい、ではこう言い換えましょう。愚痴や文句を言うだけで何もしない人と、それらを言わずに自分を変える人の違いです」
「あぁ、随分とわかりやすくなりました」
「この違いは明確です。
自分が変わらなければ世界は変わらないと気付いていない人が前者、気付いている人が後者。愚痴や文句と言うのは、自分の外部の世界が変われば良いのに、という願望が言語化したものです。変われば良いのに、と思っているだけでは変わりません。まして、言語化したところで効果は変わらない」
「文句や愚痴は、本人に言わなければ無意味だという点では、効果が薄いという意見には同意です。しかし、言わないよりは良いのではないですか?」
「いえ、よほど言わない方が賢いと思います。それは後ほどご説明することにしましょう。
自分が変わらなければ世界は変わらない、についてはいかがですか?」
「はい…正直曖昧にしか理解できていません。こちらも具体例はありますか?」
「具体例ですね。この問題は非常に感覚的なものであり、感覚を説明するのは難しいのですが、努力してみましょう。
例えば、今車を所有しているとします。その持ち主は、車に対して何らかの不満があるものです。見た目、収納スペース、走り、足回り…何でも構いません、見た目が気に入っていないとしましょう。すると、道行く車やCMを眺めては、『あれもいい、これもいい』と物欲が湧いてきます」
「日本では、特に車のモデルチェンジが早く、デザインの変遷が早いように思います。それが目移りの一因かもしれませんね」
「仰るとおり。ただ、ここでは車についての議論は避けることにします。さて、自分の車の外観に納得していない持ち主は、目移りの結果ついに新しい車を買いました。自慢の新車です」
「今度は飽きずに乗り続けられればいいのですが」
「残念ながら、それはないでしょう。人間の目は慣れるものです。そして飽きる。他の車との見た目を比べ続ける限り、本当に満足する一台には出会えないでしょう」
「それは、やはり流行があるからですか?」
「そうです。流行と言うより、世の中は常に変わり続けていると言った方が細部まで伝わるでしょう。そんな世間と見比べていては、いつまでも満足することはありません」
「では、どうしたら満足を得られるのでしょか」
「自分の基準を持つことです。満足のいかないところを埋めるのではなく、自分にとっての対象物とは何か――この場合は車とは何か、をあらかじめ考えておく。そしてそこに最も近い車を探す」
「それでも満足の行かない場合も後思いますが」
「そうなったら、自分で作るまでです。それしか方法がないのだからそうすればいい、単純なことです」
「しかし…車を作るとなるととても一人ではできそうにもありません」
「それならば、協力者を探せば良い。例えば改造は、理想の車を作るための手段の一つですが、事実多くのユーザーが行っています」
「ははぁ、分かって来ました。そこで、愚痴や文句ばかり言う人は『T社のデザインはひどい、H社はユーザーをわかっていない』などと無責任な発言を行うのですね」
「そうです。本当に理想の車がほしければ、メーカーに直接訴えるぐらいするはずです。それもしないで仲間内で文句を行っているだけでは、その人にとっては一向に理想の世界にはなりません」
「自分が行動するかどうか、と読み取れます」
「車の例は各論なのでそう受け取っていただいても構わないでしょう。しかし車の問題だけではなく、受け取る全てに当てはまる問題ですので、自分が動くかどうかに直結しない問題もあります。もう少し手を広げれば『価値観を変える』、最終的には『自分の哲学を持つ』に帰結するでしょう」
「哲学ですか」
「そうです。車とは何か、も哲学の一つですね」
「では、愚痴や文句を言う人には哲学がないと。それは少々大胆すぎませんか」
「哲学が無いと言うと、さも何も考えてないように捉えられがちですが、考えの深度が浅いだけです」
「どのみち刺激的ですが…」
「浅はかさは人を傷つけます。傷ついた人のことを思うと、これぐらい放つのは順当です」
「何やら怒っているように感じますが」
「怒っています。愚痴とは何か、文句とは何か、哲学の無いまま放てば凶器です。それを知らずに使うのは暴行です。
先ほど、愚痴や不満でも言わないより言う方が世界が変わると言う話がありました。確かに世界は変わるでしょう、しかし悪い方に。何故か。申しました通り言葉は暴力だからです。相手を傷つけることも承知の上で、更に世界が良くなるとの確信があって使うのならいいでしょう。麻酔もよく計画して使わなければ人を殺します。言葉は麻薬です。……そんな事をここで言ってもしょうがありません。
話を戻します。愚痴や文句を言う人はいつまでも満たされず、自分を変えた人は瑞々しい人生を送る。外に求めるか否は、そうして違いがあらわれます」
「しかし、求めるか求めないかの違いはどうして出てしまうのでしょうか。ひいては、哲学があるか無いかの分岐点とはどこだと考えますか」
「それは、私にもまだわかりません。確証を持つに至っていないのが現状です」
「と言うことは、仮説ならあると」
「あくまで仮説です。一つは、哲学を求められる立場か否か。当然、全ての人間に哲学は必要なのですが、幸か不幸かそれが無くても人生を過ごせる立場が多い。組織、或いは分業の副作用とも言えますか。人間は脳に動かされています。そして脳は省エネルギーで活動することを要求する。つまり余計なことはしない。哲学なんて無くても生きていけるのなら、脳にとってそれは余計なことと判断し、自ずから活動外と判断され、結果哲学の無い人間が生まれます」
「はぁ、強制的に哲学をさせられないと、脳は進んで動かないと」
「そうです。若しくは、好奇心や興味が哲学の引き金となり、立場で強制されなくても自分で哲学を始める人間もあります。非常に稀な例ですが」
「話が長くなってしまいました。途中ですが、今回はここまでとさせていただきます」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」









あまりに理不尽なことがあって、悲しいやら怒れるやら鬱に陥りそうやら、ぐちゃぐちゃだったから冷静を装って対談してみた。自分対自分。対談っていいね。難しいけど。
すっきりしませんが、ここまで。これ以上は脳が嫌がっています。お風呂入ってさっさと寝よう。
読んでいただいて、ありがとうございます。

…ありがとうって、私はよく使うんだけど、そういえば人から言われることなんてほとんどないな、と思ったら泣けてきた。私の仕事振り、そんなに酷いのかそうか。感謝されないようなことばかりしているのか。そうか。
自分何やってるんだろうな。
今の仕事に向いていない歪みが、プレートみたいに沈み続けては反動で持ち上がる。地震だ。
しんどいなあ。しんどい。